用言が体言的に働く歴とした準体法で、このような場合は、「余韻」とはあまり関係なかろうと思います。
2今で言うなら、部長のセクハラ発言を、ずばり自分の才知で切り返してしまった新入女子社員といったところでしょうか。
智恩寺側の山上にある天橋立ビューランドからの「飛龍観」。 天橋立ビューランドは展望台のある遊園地で、ここからの眺めは龍が天に昇っていく姿に見えることから飛龍観と呼ばれています。
この歌では、「大江山」「生野」「天の橋立」と歌枕を三カ所も並べている。
改稿も本人にとっては「そうしたほうが好ましい文章になった」というだけのことで、作品は彼のフィーリングがその一時結晶化した結果に過ぎない。 定頼はさだめし驚いたことでしょう。
11広辞苑ではめど(目処)もくと(目途)と分けて記載されているだけで説明がなく 不親切です。
これは現代語で言えば「~の(だ)」に相当します。 どちらに乗っても同じ料金。
古来、人々は天架ける浮き橋を通って自らの祈りが神仏の御許に届く様子を思い描きながら、海渡る参道・天橋立を渡ったのです。 妹の今際の言葉として、文字の意味ではなく「音として記録」した、という解釈ができるでしょう。 使者は帰って来ましたか」などとからかったのだが、小式部内侍は即興でこの歌を詠んだ。
また、既に例が出ていますが、連体形で文を結ぶことによって「余韻を与える」とされる用例もあります。 『万葉集』巻十二の「丹波道(たにはぢ)の大江の山のさねかづら絶えむの心わが思はなくに」は、ここをいうのであろう。