出典 [編集 ]. 16歳でトップチームの試合に出場し、以後同クラブの中心選手として活躍。
子どもたちを夢中にさせるには、コーチたちの難易度の設定が重要になってきます。 1992年• 小学校4年から読売クラブ ヴェルディの前身 に入り15歳でプロ契約。
(菊原志郎氏のコメント) 漫然と繰り返すのではなく、楽しみ方やその工夫ができるという思考の柔軟性をどのように伝えていくかも育成を考える上では重要な要素ですね。
Jクラブのアカデミー(東京ヴェルディ、横浜F・マリノス)と日本サッカー協会が管轄するJFAアカデミー、年代別日本代表(U-15~U-17)と、日本のトップレベルの子どもたちの育成をしてきた経験から、日本サッカーの育成は今後、どのようにすべきだと考えているのだろうか? 日本でも中国でも同じコンセプトで選手を指導し続ける菊原志郎「日本サッカーはJリーグができて、トレセンなども整備されてきて、ある程度、こうすれば、これぐらいにはなるという基準はできました。 そして、菊原氏が価値を感じているのはフェアプレー賞も同時受賞したことだ。 1989年• スポーツの現場でも、なぜこの選手は成功して、なぜこの選手は結果を残すことができないのだろう?と疑問を持つことがあります。
18「クラブが未来を担う子供を日本人に託してくれた以上、責任をもって彼らの子供を成長させていく。 広州富力で育った選手達の活躍次第では日本人が代表監督をはじめとする協会のスタッフに登用される可能性もあるかもしれない。
浦和には実弟の(現・准教授兼サッカー部監督)が在籍していた。
ケガの影響で27歳で現役を引退すると、指導者として活動をスタート。 「そうかもしれません。
それは僕達がやらなければいけない仕事。 そうすると、やはり「個の育成」が大事になってくるのでしょうか? 「よく『個の育成』って言われますよね。
20得意なことで勝負しようと思っていたけれど、上にいけばいくほど、武器が武器じゃなくなるんです。 そんな菊原氏が昨年、サッカーキング・アカデミーが開催した「第2回チームビルディング 短期講座」にゲストとして参加した。
教育者として選手を良い人間に育てないと将来不幸にしてしまうかもしれない」 菊原氏はこの先も多くの優秀な人材を生み出すだろう。 だから若い頃から得意なことだけではなく、苦手なことにも取り組ませなければならないと思っています。 「チームで一番の駿足で、上手くて強くて機転が利く。
東京ヴェルディのジュニア、ジュニアユース、ユースのコーチ、U-15、U-16、U-17日本代表コーチを歴任し、2011年にはFIFAU-17W杯に吉武博文監督とともに参加。 元々もっている広州の子達の特徴と世界基準の指導を融合させて、一番合ったサッカーを創ってきたいですね」 日本で盛んに議論される「自分達のサッカー」は中国には存在せず、現時点においては色んな国のエッセンスを吸収している段階だ。
サッカーを通じて色んなことを学んで人生の基盤をつくって欲しい。 広州富力のお隣、広州恒大は育成部門においてレアルマドリードと提携している。 1991-92年• 僕が指導している中学2年生のチームでやってみたときは、「やってみよう」と言い出すまですごく時間がかかったんですよ(笑)。
8僕も多くの指導者に巡り合い、いろいろな影響を受けて成長したという実感があります。
特色として各学年、希望者を対象に2クラスずつ設置した「特進クラス」があります。
きっとそれはサッカー界だけに留まらない。 確かに、世界のトップの中で戦うとなった時には、個人のレベルを高めていかなければいけないと思います。